小田和正8/24「ザ・ワイド」レポ1「言葉にできない」はどう生まれたのか。はこちら。
(「my home town」が流れる。子供時代の写真。幼少時代の小田さんは?)
草野さん:長男の方が中学の頃、毎朝お母さんに起こされて、なかなか目覚めが良くなかった。それを次男である小田さんはじっとご覧になってて、自分は中学生になったら、絶対あんな風にはならないぞ、と思って。本当に中学になったら、お母さんが起こしにきた時にはもう、布団の上にちゃんと座ってたという…?
小田さん:(母親に)起こされたことないですね。(草:笑う)
うん…だからもうけっこうね、ずうっとそういう生き方ですね。
一回そうなると。
(目をギュッとつむって左手で目尻横をかき、思い出しながら話すように)
大学の時仙台行ったんですけど、なんも意味ないんだけど、大学ったらみんなサボったり、代返したりが基本じゃないですか。
なんだかある時から急に、早く、大学行くようになったんですよ。学校が開くの待って。それで入ってたんですよ。
それで、一回そういうことになると、途中で止めらんなくなるんですよね。止めるとダメな人間になってくような気がして。
さっきその、走ってるって言ったですけど。走ってないと、自分が、堕落したみたいな。
それはけっこうきついですね、自分では。
(「ムーン・リバー」中学・高校の写真。野球部の主将、そして音楽にのめりこむ。
「夏の終わり」東北大学工学部建築学科に進学。卒業設計「アート・ヴィレッジ」の図面。早大理工学部建築科修士課程卒業)
草:建築学を一応放棄して、歌の道に入っていかれたというのは、なにか大きなきっかけとかあったんですか?
小:きっかけはないですね。歌が好きだっていう、歌をやめるっていうことは…歌をやめるっていうことは想像できなかったですね。
で、建築をやめるってことは、想像できたんですよ。
(草:なるほど)
歌をこっちに置いちゃう(両手で横に置く仕草)っていうことはね…自分の人生のなかでは有り得ないなっていう。
いざとなったら、薬局の店番でもすりゃいいか、みたいな、逃げ道はどっかにあったみたいな気がしますけどね。
(オフコース結成。コンテストがきっかけでプロデビュー。
10年間試行錯誤の日々。しかしついに大ブレイク。
”オフコース1982.6.30武道館”より「さよなら」の映像)