中日ドラゴンズ山本昌200勝記念「夢の途中~だから僕は投げ続ける~」

January08 [Thu], 2009, 18:02

お年玉いただきました!!ヽ(´ ∇ `)ノ
2009年1月2日(金)23:50~東海地区ローカルで放送された
「山本昌200勝達成記念特別番組」
ナレーションがなんと小田和正!!というわけで、
小田さんのナレーション部分だけですが、レポってみました。
(ナレーションだけのレポに意味があるのか?は置いといて(笑))

いつものライブMCのようなべらんめえ口調ではなく、ちょっぴりよそ行きでかしこまった感じ

…ライフサイズ冒頭みたいな、小田さんの声を想像しつつ、読んでみてください。

なお、放送されたものとまったく同じではありません。 

中日ドラゴンズ山本昌200勝記念「夢の途中~だから僕は投げ続ける~」

ナレーション:小田和正

小田さん(ナレーション):玄関に飾られた写真。

(山本昌投手:出かける時はここ電器つけて、手を合わせてから…先発の日は出るようにしてますね。…)

写真の前には、200勝のウイニングボール。
2008年、8月4日。玄関に飾られた写真は、にこやかに微笑んでいた。

ロサンゼルス郊外にある墓地。
ここには、200勝投手山本昌を育てた恩師が眠る。

ロサンゼルスから遠く離れた、フロリダ・ベロビーチ、ドジャータウン。
元・ドジャース会長補佐、アイク生原。
今から21年前、この地でのアイクとの出会いが、昌の運命を変えた。

1983年12月、ドラゴンズに入団した昌。
ドラフト5位での指名ながら、背番号は34。当時のエース、小松辰雄から引き継いだ、期待の大きい番号。しかし、評価は散々だった。

プロ4年間で登板はわずか4試合。いわば、クビ寸前の選手。
そんな昌に転機が訪れたのは、プロ入り5年目の1988年、ベロビーチキャンプの時だった。

弱気な昌を変えたのが、ベロビーチキャンプで臨時コーチを務めたアイクだった。

アメリカのシングルAは、年間140試合。年間80試合の日本の2軍では経験できない試合数を、アイクと過ごした日々。
野球漬けの毎日は、山本昌の礎(いしずえ)となった。
そして、昌の代名詞、スクリューボール。この決め球も、アメリカ留学でマスターしたものだった。

敗戦処理から始まった昌のシングルA生活が、気づけば、ローテーションを獲得し13勝。オールスターにも選ばれた。
さらに…

メジャーから声がかかるほどの急成長。昌は急きょ、日本へ帰国した。

そして、生まれ変わった昌は、首脳陣の度肝を抜いた。

アメリカからの逆輸入左腕は、わずか一ヶ月あまりで5勝をあげ、リーグ優勝に貢献。クビ寸前の投手は、アイクとの出会いを通じて、日本のプロ野球界で花開いた。

(山本昌:僕はアイクさんの思いやり、あたたかさの方に救われたと。あと熱心さと。
ハングリー精神を学んだというよりも、日本の何倍の試合数を、アイクさんと過ごして成長できた。
アイクさんのあたたかい指導の方が、印象にありますね。)

そして翌年も、昌はアメリカの地を踏むことになる。
これにはひとつの出来事があった。

(星野元中日監督:日本に慣れちゃった。いい加減なピッチングしてるわけですよ。初心を忘れてるなと。
今日お前負けたら、もう一回アメリカ行け。先に通達してたんですよ。)

1989年9月。甲子園で行われた阪神戦。

(星野監督:負けさそうと思った。投げても投げても…変えてやりゃいいんだけど、打たれろ、打たれろと。)
(山本昌:わかりますよ、あんなの。勝ってましたけど…あの試合、上手に逆転されましたね。)

7回まで好投を続けるも、8回に逆転され、敗戦投手に。
昌のアメリカ行きが決まった。

シーズン途中にも関わらず、再びアイクの元に送り込まれた昌。
この2度目の渡米が、昌の投球の幅を広げるきっかけになった。

(山本昌:アイクさんが言うには、お前はとにかくカーブが足りないんだと。カーブを投げられるようになるんだ、と。でもこのカーブは3年かかるよ、と。
勝てるピッチャーになったのはスクリューですけど、その後に習ったカーブも…
2回目にアメリカ行った時にはもう…ブルペンで何千球もカーブを投げました。アイクさんが捕ってくれて。
3年かかって、92年の終わりぐらいにいい感じになってきた…と思った時に13勝までいって、次の年は17勝、19勝と伸びてくわけですから。)

スクリューボールとカーブ。アメリカで、この対照的な軌道を描く2種類の変化球を会得した昌。
チームの柱に成長するのに、時間はかからなかった。

しかしそんな矢先、昌に訃報が飛び込んでくる。
アイクの死だった。
94年オフ、昌はアイクの元へ向った。
投手にとって最高の栄誉と言われる、沢村賞を手に。
アイクとの5年ぶりの再会は、無言の対面だった。

アイクが亡くなったあと、昌は、自宅の玄関にアイクの写真を飾るようになった。登板の日は電器をつけ、必ず、アイクの写真に手を合わせる。

2008年8月4日、200勝を達成したこの日。
昌は、いつものように玄関先のアイクの前に立った。

アイクに祈りを捧げた後、昌は、ナゴヤドームがのぞく墓地に向った。
登板の日に行うもうひとつの、いつものこと、を、するためだった。

この場所には、昌をプロの世界へ導いたスカウトが眠っている。
高木時夫。彼がいなければ、アイクに出会うことも、200勝を達成することも無かった。

(山本昌:高木スカウトでなかったら、たぶんプロには入ってないと思います…)

今から26年前、無名の左腕をプロへと導いたのが高木だった。

そんな高木も3年前、肺がんのため死去。
いつも昌の投げる姿が見えるように、ナゴヤドームが見える場所に、墓が建てられた。

野球人生の岐路に立った時、いつもそこに、誰かがいた。

13年間通い続ける、鳥取県のスポーツ施設との出会いは、怪我がきっかけだった。
1995年に膝を痛め、オフには手術。2年間、満足のいく成績が残せなかった。そのとき出会ったのが、小山裕史の提唱する初動負荷理論だった。

(初動負荷理論…体の根幹部(肩甲骨周りや股関節周り等)の可動域を広げることで、初動作のパワーやスピードを最大限に発揮できる体を作る)

股関節や肩甲骨周りなど、体の根幹部を鍛える独自のトレーニングに、昌の体は反応した。

鳥取に通い始めて13年。その後大きな怪我に見舞われることなく、30才以降で勝ち星を116個積み上げた。
1997年にはプロ通算100勝達成。18勝をあげ、3度目の最多勝を獲得した。

2006年には、史上最年長のノーヒットノーラン。
200勝まで、あと9勝まで勝ち星を積み上げる。

そんな昌も、引退を考えたことがある。
53年ぶりの日本一が達成された2007年、この年あげた勝ち星はわずか2勝。

(山本昌:真剣に引退と向き合って考えたりもしましたね。
ここであきらめると、アイクさんや高木さんが、名前が残んないんじゃないかと思って…恩返しするのは、200勝することだと…)

出会った人たちのためにも、200勝を達成したい。
だから僕は、投げ続ける。

(2008年。
194勝ー5/7、対広島 195勝ー5/14、対ヤクルト
196勝ー5/21、対楽天 197勝ー7/15、対巨人
198勝ー7/21、対広島 199勝ー7/27、対阪神)

迎えた2008年8月4日。場所は本拠地、ナゴヤドーム。
200勝を達成するには、最高の舞台だった。

【プロ通算200勝 史上24人目・42才11ヵ月】

初めて昌は、宙に舞った。

200勝のウイニングボールは、玄関の写真の前に、置かれた。
玄関のアイクは、満面の笑みで、昌を出迎えた。

このオフ、昌は、いつものように鳥取で始動した。
なぜ、昌は、投げ続けるのか。

(山本昌:もう一回野球人生をやっても、こんなに100点満点以上の野球人生は送れないと思ってますから…
どんな苦しくても、1勝した時の嬉しさっていうのは、何物にも代え難いですし…勝負できるなら、少しでも長くやっていたい。
おそらくプロ野球選手ならだれでも思うことを実際に、実践できてやらしていただいてる。本当に幸せなピッチャーだなあと。

まあ…夢みたいなもんですよ。
引退した時はたぶん、夢のようだったなあ、という感覚に陥る…ああ、醒めちゃったなあっていう感覚になるんじゃないかなあ、と思いますけどね。すごく長い夢ではありますけどね。)

プロ入りした時は無名の左腕。
それが、人との出会いを通じて、球界を代表する左腕へと成長した。
人を思いやる気持ち。
信念を持ち、継続する。
だから僕は投げ続ける。それは、夢の途中だから。

玄関に飾られた、200勝のウイニングボール。

(山本昌:このボールを持って、墓参りに行くつもりです。)

玄関のアイクは、これからも、昌に、エールを送る。

ナレーション:小田 和正
制作:東海テレビ

小田さんのナレーション、とっても良かったです。
日本語の発音がとにかく美しく、冷静でありながら温かく。
スポーツ選手のドキュメントではありますが、
人との出会いを大切にし、人知れず努力を重ね、
限界を作らずに挑戦し続ける姿は、
アーティストである小田さんにも重なるような気がしました。

人を思いやる気持ち。
信念を持ち、継続する。
だから僕は投げ続ける。それは、夢の途中だから。

投げる、を歌う、に置き換えたら。
小田さんの言葉のようにも聞こえてきます。

さん、素敵なお年玉、ありがとうございました~~