LPを必死に買っていた頃

December16 [Fri], 2005, 21:59

初めて、自分のお小遣いで買ったLP。
オフコース。

どれを買えばいいのか全くわからなかったので、お店の人に聞いた。
お店の人はなぜかすごく喜んで(たぶんファンだったんだろう)「この子がオフコース聴きたいって!」と店長らしき人を呼んできた。
「小さいのにえらいね~。特別だよ」と言って、”Off Course”とロゴの入った単三乾電池と、ハンカチをくれた。乾電池の台紙にはメンバー5人の写真。
使えずに、今も大事にとってあります。

オフコースのLP全部揃えるぞ!と決心したものの、当時の自分にとって、LPはとてつもなく高い買い物であった。  

欲しいモノがあって、値段を見て、別の欲しいモノと比較してみて、買うのを思いとどまったり。それよりも欲しい!と衝動買いしたり。
…という「買い物の基準」となるモノがある。
それと比べて、価格は割高か割安か。
それを我慢してでも、買いたいか。

昔、部活をやっていた頃の基準は「ピクニック」だった。
校舎に設置されていた自販機の紙パックジュースである。60円。

あの頃、厳しい練習の後で飲むジュースが、何にも代え難い幸せであった。
一日ジュース2個も飲むのは贅沢すぎる。
だから、お昼のお弁当は飲み物無しで食べた。
食べ終わってから、水道の水をごくごく飲む。

実は「お弁当用」の飲み物代を、小遣いとは別でもらっていたのだが。
放課後まで使わずとっておく。練習の後はとにかく腹ぺこだったからだ。

よく行ったのは、ディッパーダンアイスクリーム&クレープ。

一番安い「生クリームチョコクレープ」が130円。
たまに大奮発!してラムレーズンやバナナチョコを食べる。
ハンバーガー店に行けるのは、シェイク半額セール時のみ。

月末は皆、お小遣いが残り少ないので、学校前のパン屋で売っていた醤油堅焼きせんべい・一枚10円を、2枚買って食べる。20円。
堅いので、食べるのに時間がかかるのが、運動部の連中に人気なのである。
(なんか書いてて切なくなってきた…)

あの頃はいつも空腹で、ついでに眠くて寒かった。
冬の朝練が終わると、まだほんのり温かいお弁当が食べたくてたまらない。
つか、食べちゃって昼からおなかすいて辛かった…

その頃の「買い物の基準」、60円の紙パックジュース・ピクニック。
モノの値段はすべてピクニックに換算!
「ピクニック○個分だよ!」が我々の日常会話であった。
まんがや文庫本は6~10個分。チョコレートパフェも10個分。
洋服代はかかんなかった、いつもジャージだったから(笑)

その基準でいくと、LP一枚は、ピクニック47個分。
一枚でピクニック約2ヶ月分!
ありえないほどの超・贅沢品でした。
ちなみにCDプレイヤーなんて雲の上の存在であった。

「好きなLPのために、部活後のジュースとおやつを我慢する」
これが辛かった…

節約してから買おうとすると挫折するので、月初め、お小遣いをもらってすぐに、思い切ってLPを買ってしまう。
で、仲間がジュース飲んでるときに、ひとり寂しく(または同じくLP買っちゃった奴と)水道の水で我慢。切ない。
さっさと帰りゃいいのに、友達としゃべってたいんだよね。

そうやって買ったLPは、すぐにカセットテープに録音して、そのテープを繰り返し聴いた。万が一傷をつけたらと思うと、簡単にLPには針を落とせなかった。
とてもとても大切なモノだった。ピクニック47個分の我慢と引き換えに、やっと手にしたのだ。
大切に、ひとつのLPのカセットを、何度も何度も聴いた。

オフコースのLP。

大人になって良かったことのひとつは、好きなだけCDが買えることだ。
もちろん、そのために他でいろいろな我慢をしているのだろうけど、
少なくとも、レコード店でLPを手に取って、じっと眺めては帰っていた頃のような、聴きたくてたまらないのに聴けない我慢ではない。
おやつを我慢するのは…今でもたまにあるけど。

あの頃と今とでは「音楽が無ければ…(生きてはいけない)」、の度合いが違っていただろうな。

小田和正8/24「ザ・ワイド」レポ2・オフコースを振り返って

August25 [Thu], 2005, 13:06

小田和正8/24「ザ・ワイド」レポ1「言葉にできない」はどう生まれたのか。はこちら。

(「my home town」が流れる。子供時代の写真。幼少時代の小田さんは?)

草野さん:長男の方が中学の頃、毎朝お母さんに起こされて、なかなか目覚めが良くなかった。それを次男である小田さんはじっとご覧になってて、自分は中学生になったら、絶対あんな風にはならないぞ、と思って。本当に中学になったら、お母さんが起こしにきた時にはもう、布団の上にちゃんと座ってたという…?

小田さん:(母親に)起こされたことないですね。(草:笑う)
うん…だからもうけっこうね、ずうっとそういう生き方ですね。
一回そうなると。
(目をギュッとつむって左手で目尻横をかき、思い出しながら話すように)
大学の時仙台行ったんですけど、なんも意味ないんだけど、大学ったらみんなサボったり、代返したりが基本じゃないですか。
なんだかある時から急に、早く、大学行くようになったんですよ。学校が開くの待って。それで入ってたんですよ。
それで、一回そういうことになると、途中で止めらんなくなるんですよね。止めるとダメな人間になってくような気がして。
さっきその、走ってるって言ったですけど。走ってないと、自分が、堕落したみたいな。
それはけっこうきついですね、自分では。

(「ムーン・リバー」中学・高校の写真。野球部の主将、そして音楽にのめりこむ。
「夏の終わり」東北大学工学部建築学科に進学。卒業設計「アート・ヴィレッジ」の図面。早大理工学部建築科修士課程卒業)

草:建築学を一応放棄して、歌の道に入っていかれたというのは、なにか大きなきっかけとかあったんですか?

小:きっかけはないですね。歌が好きだっていう、歌をやめるっていうことは…歌をやめるっていうことは想像できなかったですね。
で、建築をやめるってことは、想像できたんですよ。
(草:なるほど)
歌をこっちに置いちゃう(両手で横に置く仕草)っていうことはね…自分の人生のなかでは有り得ないなっていう。

いざとなったら、薬局の店番でもすりゃいいか、みたいな、逃げ道はどっかにあったみたいな気がしますけどね。 

(オフコース結成。コンテストがきっかけでプロデビュー。
10年間試行錯誤の日々。しかしついに大ブレイク。
”オフコース1982.6.30武道館”より「さよなら」の映像)

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「風のようにうたが流れていた」のは


そうかな10「風のようにうたが流れていた」

July02 [Sat], 2005, 19:57

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そうかな / 小田和正(2005年)

「風のようにうたが流れていた」(10曲目)

私に風のように流れていたうたはオフコース。風というよりは、砂嵐のような激しさだった、今にして思えば。
最初に自分で買ったLP。最初に友達と行ったコンサート。
チケットを取るために、何時間も公衆電話をかけ続け、真冬の屋外に徹夜で並んだ。
部活の夏合宿の夜、持ち込んだラジカセでオフコースをかけながら、夜更けまで友だちと喋る。次の朝のランニングが眠くて辛い。

2004年の秋から冬にかけて毎週月曜深夜に放送されていた、「風のようにうたが流れていた」。
エンディングはこのテーマ曲を弾き語りで歌うことが多かった。

出会いも 別れも 知らぬままに 流れるうたをきいていた
なぐさめられて はげまされて そして夢をみた

画面にその日のテーマに沿った写真が何枚も映し出される。
オフコースがテーマだった第8話と9話、メンバーみんなの姿が映った時は、さすがにぐっときた。
その写真の向こう側、映っていないところに、かつての自分達がいる。

あの夏の空 きらめく海も 忘れかけてた 青い恋も
そしていちずにときめく心も 昨日のことのように

(「風のようにうたが流れていた」)

第9話で語られた、オフコースの終わり。
オフコースを学校に通っているような毎日、と例えた小田さん。
「学校ですから、やがて卒業していくときが訪れます。今ぼくは、オフコースの解散をそんなふうに解釈しています。」
オフコース最後のライブは東京ドームだった。
「その時のファンの人たちの声は今でもよく覚えています。
では、これはオフコースを想って作った歌です」 
完全版DVDでは、そのあと「あんまり、しんみりしないでください」と小さく微笑んでいる。
そして、「NEXTのテーマ-僕等がいた-」を歌い始める。
はい小田さん。しんみりなんてしてません。
ぼろ泣きじゃ。うわああああああーん。

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