夏リスト補足・小田さんBBS書き込みのこと(2002/8/21)

August02 [Fri], 2013, 23:43

一つ前の記事 小田和正ソロ夏うたプレイリスト・2013年改訂版→
から、ご質問というかリクエストをいただいたので、ちと補足的な追記を。長いです(笑)
お時間ある方のみ、どうぞ

・・・

 夏うたプレイリストの10曲目「woh woh」について。

2002年のツアー『kira kira』の最終日は、真夏の名古屋でした。
確かな ことなど 今 何も ないけど
ほんとうに 大切なことは 君が 教えてくれた
突然歌声が途切れ、涙を隠すようにうつむく小田さん。
ツアー終了後に、小田さんからのBBSの書き込みを見て、滂沱の涙でした。
絶対、一生ついてくと思った。それまでもそう思ってたけども。

・・・

この、2002年当時の「小田さんからのBBSの書き込み」に関して、もう少し詳しく補足などを。

過去のBBS書き込みは見れなくなっていますが、
小田さんが書いた文章は、プレス又は次のツアーパンフレットに掲載されることが多いので
今も手元に残っています。

2002年5月にスタートしたツアー『kira kira』は、開始早々、
小田さんの体調不良により、米子、福岡、鹿児島の5公演が延期になりました。
それまでの激しい無理がたたって、風邪をこじらせ喉に炎症を起こしてしまったのです。

公演延期…どれだけ残念で悔しくてたまらなかったろう。
小田さんの言葉の端々から、悔しさが伝わってきて、ファンも辛かった。

以下、「大好きな君に」ツアーパンフレットから引用。

「Are you ready?」

 何から書いていいのか分からないほど、頭の中でいろんなことが整理されずに混じりあっていますが、まず初めにもう一度お詫びとお礼をしなければいけません。迷惑をかけました。ほんとうに申し訳なく思っています。こんなことを言うと怒られそうですが、今回は遅かれ早かれツアーの途中で、あんなふうに、体が、声が言うことを聞いてくれなくなる日が来ていたのではと、時間が経つほどに思うようになりました。頑張るということしか考えて来なかったので、体を休めるということの必要性を、身をもって感じたことがなかったのです。
…(中略)…
興味を惹かれる仕事の依頼、手伝ってあげたい仕事、どうしてもやらなくちゃと思っていること。そんなことたちがどんどん重なってきて心も身体も動きが取れなくなり、結果がなかなか出せない。それが自分を責め始める。でも、ずっとそうしてきたから、自分を責めることで乗り越えてきたから、これを突破してこそ初めて激動と言えるんだ、滞っているだけではさざ波も立ちはしない。そこから身を引こうという気はなかった。しかし絶対量としてこんなに忙しかったことはなかったのか、体力が落ちたのか未だに判断はつきかねているけれど、結果としてみんなに迷惑をかけることになった。
…(中略)…
 5月20日、福岡の「zepp」からツアーを再開することが出来ました。ありがとう。みんなにかけた迷惑を、どうすればぬぐい去ることが出来るんだろう、と思い巡らせましたが、同じ過ちを繰り返さないと決意するのが唯一の解決方法という考えに至りました。東北地方のツアーを終えて帰る時、30年の付き合いになるイベンター、ギルドの社長の奥さん窓子さんがいつものように仙台駅まで送ってくれて、ホームで「この前の『same moon』の時、今まででいちばんいいと思ってたけど、今回の方がもっと良かった。終わっちゃって寂しいわ」と言ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。さらにそのまま、新宿厚生年金会館、横浜パシフィコと突っ走った。ライブでみんなの顔を観ていると、どれだけみんなが待っていてくれているか良く分かる。それが僕にとっての支えだから、なんとか期待に応えたいと思う。僕は思った、走れるうちはやっぱり走ろう。でももう、迷惑はかけないよ。最後まで、約束通りきっと精一杯「キラキラ」してみせます。待っていてください。

2002/06/18 小田和正

復帰後も、予防のため、毎日のように点滴を打ちながらのツアーだったと記憶しています。
小田さんの喉のアップ写真も公開されましたね。あれは衝撃でした

ご当地紀行ではスケッチコーナーもあり、体力的な負担は相当なものだったと思います。
秋には、追加公演が発表されるはずでしたが、それもなくなってしまいました。

いろいろあったツアーの最終日は、2002年8月18日、名古屋体育館でした。
「woh woh」の途中でふいに、涙で歌えなくなった小田さん。。

ツアーが終了した3日後、公式サイトBBSに、小田さんのメッセージが掲載されました。

「みんなが教えてくれたこと」

「客電がついて誰も帰らなかったらひとりで何か歌おう、何歌おうか」、舞台を降りた溜まりで、エンディングのC.Gの音楽をぼんやり聞きながら考えていた。絶好調とはいかなかった僕の声に気を遣ってか、「ロボコンのテーマ」が流れたせいか、みんなの拍手がスッとおさまった。「あー、終わった…終わったな」と確認するように自分に言いながら楽屋へ戻って行った。急に大きな拍手が聞こえた。すべてのスタッフたちが僕を迎えてくれたのだ。「なんだ、お前らステージのバラシあるんじゃねぇのかよ、こんなとこで何してんだ」と誰にも聞こえないような小さな声でつぶやきながら、みんなが両側から手で作ってくれた細長いアーチをくぐっていたら、折角ふっ切った涙がまたこぼれてきたので、そのまま自分の控え室へ飛び込んだ。オレはみんなに涙なんて見せたくないんだよ、ほんとうは。こんな意地悪でステキなスタッフたちがいるだろうか。その二時間ほど前、「woh woh」のワンコーラス目を歌い終えて、今回のツアー、いろいろあったけど自分なりに一生懸命頑張って、頑張って、やっと終わって行くんだなと思った時、自分の書いた次の歌詞が突き刺さってきた。「確かなことなど今何もないけど、ほんとうに大切なことは…」。まったく予想していなかったので不覚にも対処することが出来なかった。「あぁ、みんなに支えられてるんだ、大切なことをみんながまた教えてくれてる」、決してそれを忘れているわけじゃないけど、それがこみ上げてきた。歌えなくなって、止まった。そんなふうになるくらいなら、歌いたくないというくらいの気持ちで臨んでいるのに。どこへ行っても、来てくれたみんなの素直な笑顔があんなにあふれているツアーは経験したことがなかった。僕に応えてみんなが繰り返し何度も何度でも手を振ってくれたライブも初めてだった。体のことも、いつもいつも身内のように心配してくれていた。あんなに大勢のひとたちが「キラキラ!」輝いていた。「きっとキラキラしてみせる」と言った僕の約束を、みんなの想いがいつも乗り越えて行った。ツアー終盤を迎えて、「またきっと会おうね」と言いながら、この後「kira kira!」を越えることはもうほとんど不可能に近いかなと思っていたけれども、あんなにステキな笑顔でみんなが待っているなら、会いに行こう、また新しい時が流れて来るかも知れないと考え始めた。コンサートに来てくれた多くの人たち、来られなかったけどずっと応援してくれていた人たち、ほんとうに心からありがとう。

今だからできること決してそれを忘れないで
この時この二人 ここへは戻れない

2002/8/21 小田和正

・・・

絶対、一生ついてくと思った。それまでもそう思ってたけども。

2002年の『kira kira』ツアーは、
これまでにないくらい、客席と小田さんの距離が縮まって、
嬉しくて楽しくて少しだけ辛い思い出と、「次」の約束を残して、終わっていきました。

もう11年前なんですね。ついこないだのことのよう

あれから『大好きな君に』『今日も どこかで』『きっと またいつか』
そして『どーもどーも その日が来るまで』…
ツアーをひとつ越えるたび、もっと小田さんのことが好きになっていきます。

以上、補足(長)でした。

Kazumasa Oda Tour 2005 ”大好きな君に” ツアーパンフレットより一部引用

さらさらサラダ記念日(笑)に…

October31 [Sun], 2010, 14:05

 あきさんからいただいた、
NHK名古屋10/27放送「さらさらサラダ」ヤスさんゲストの番組レポはこちらです→

 “君が手紙を書いたから10月27日は「さらさらサラダ記念日」”(@kikaseteanata さん命名)
思いっきり字余り~/(^o^)\(笑)

私が、初めて、生で小田さんの口から「ヤス」という言葉を聞いたのは、
忘れもしない(笑)2000年の8月31日、神奈川県民ホールでした。
地元横浜での、三日間公演の最終日です。
2005年にも一度、ブログに書いてますが… 



 当時の、自分の小田さんコンサート日記(笑)から…

【ライブMCメモ(2000年8月31日)】

「小田さん:もしコイツと会わなかったら、音楽やってなかったかもしれない。こうして歌ってなかったかもしれない。

鈴木康博というヤツ。

音楽的に非常にすぐれた才能があって、ソイツと一緒に、
あと地主って言うヤツも一緒に、音楽を始めて、
で、ずうっとやることになって。

それでも続けていけるなんて思ってなかったし、
オフコースの時もいつやめてもおかしくなかったし…

それでソロになって、
俺、音楽続けていけんのかなあ、とか思ってたら、
園山とか栗ちゃんと、当時の最初のバンドメンバーでしたけど、出会って、
これでやっていけんのかなあと思ったりして。

『たら、れば』っていうのはたいていあそこで、こうしてなければ…
と、ゴルフとか、わりと悪いことが起きた時に思ったりするものですが、
俺なんかの場合は、あそこでこの人と出会ってなかったら、俺はどうなってたんだろう?
こうして今歌ってなかったかも知れない。っていうのが多いですね。」

…7曲目は ” my home town “。
今まで、このツアーでは演奏していなかったはず。

あのMCのあと、一曲はさんで、この曲のイントロが始まった瞬間、まわりみんなが息をのんだ。
あんな言葉のあとで歌われたら、どうしたって鈴木さんのことを思い浮かべてしまう。

ここで夢を見てた この道を通った
できたばかりの根岸線で 君に出会った

今まで、こんな風にコンサートで鈴木さんの話をしたことがあったろうか。
小田さんは本当は、もう一度昔のように鈴木さんと音楽をやりたいのかもしれない。たとえ一度きりでも。
神奈川県民ホール、最終日。
共通の友人もたくさん来ていたろうし、きっとこの日のMCは確信犯に違いない。

この頃は…まさか小田さんから、ヤスさんの名前が出るなんて思いもよらなかった頃で、
すんげえ衝撃だったんだろうなー(笑)
日記の文面が、熱い!

(笑)

あれから、10年の歳月が流れて…

小田さんはすっかり、ステージやクリ約で「ヤス、ヤス」連呼してるし

ヤスさんのライブでも、小田さんの話題が出ることがあって、
観客もにこにこ、ヤスさんもにこにこ

きっと何かしら、やりとりはあるんだろうな…と…

でも、こんな風に、公の場で直接、どちらかがどちらかに働きかける、ということは
まったく予想もつかないというか…
正直、もう無いかも…とさえ思っていました。

風が吹いた。

どんな力、タイミングが働いたのか、まるで、
ふわっと、予期せぬ風のように、その時がやってきた、という感じです。
気づいたら、もう風は吹いていた。

誰も予想しなかった形で、28年の歳月を、軽々と超えてきた。

小田さんの声が、聞こえる気がする。

…「どうだ、まいったか!!」

参りました。28年、ずっと待ち続けてきて良かった。

あの頃の、幼かった自分に言ってやりたいものであります。

自分の信じた人たちだから…大丈夫。
信じて、待ってなよ!!と。

今、ヤスさんの最新アルバム「WITH」を聴いています。

青春を分け合った友は 一生の友という

・・・

君と歌った歌が 今はたまらなく懐かしい

という歌詞が、耳に飛び込んできて

ヤスさん曰く、大学の友人のことを歌った歌だそうですが…
小田さん宛の手紙、を聴かせてもらったような
そんな気がしました。

「時計台の下で」作詞・作曲 / 鈴木康博

今日も よなごで

April20 [Sun], 2008, 18:41

昨日今日と、小田さんは米子ですね

きっと今ごろ、みんなでキラキラ

してるんだろうなあ~~

思えば、2002年5月11日。
突然の公演中止のお知らせに、参加しない自分もかなり動揺しました。

公式BBSでの、ファーイーストクラブからの緊急のお知らせに続いて、
小田さんご自身からの「すみません、間もなく羽田です」というメッセージを読む。
やり切れない悔しさが伺える言葉に、小田さんの心中を思い、切なくて…

喉のお医者さんとすっかり仲良しになって(涙)
二度とあってはならないと、好きなゴルフもなるべく控え、
声のケアにいっそう気を使い、ライブ終了後には点滴を打ち…

お、思い出したらみぞおちあたりがきゅうう…としてきた

その後、すっかり元気になった小田さん、「良くなりました!」と、
キレイなピンク色の喉のアップ画像(きゃ

)を見せてもらったような。新宿の厚生年金会館だったかな?
…て、うあっ!Σ( ̄口 ̄;キラキラツアーの東京公演、厚年でコンサートあったんだ…そんで行けたんだ…
いいなあ当時の自分。。

当時54才だった小田さんより、今の60才の小田さんの方が、安心して見ていられるような気がするのはなんでだろう。
今日もどこかで、走ってる姿が浮かぶから?。。( ̄▽ ̄)。。

もうずっと、どんな時も小田さんの歌があって、
いつも小田さんから大事なものを受け取っているから。
いつか恩返しをしたいと思っていても、そんなことはできるわけもなく、
もし小田さんが大変な時でも、ただ心配する以外は何にもできない。
それが「ファンというもの」なのだけれど、時々、何の力にもなれない自分が悔しくなる。

だからせめて、どんな時もずっと、何があろうと、どっしりとかまえた、ゆるぎない大地のようなファンでありたいと思うのであります。

ずしっ
いわゆる「鉄板なファン」とでも申しますか。

そういうものに私はなりたい。