小田和正8/24「ザ・ワイド」レポ2・オフコースを振り返って

August25 [Thu], 2005, 13:06

小田和正8/24「ザ・ワイド」レポ1「言葉にできない」はどう生まれたのか。はこちら。

(「my home town」が流れる。子供時代の写真。幼少時代の小田さんは?)

草野さん:長男の方が中学の頃、毎朝お母さんに起こされて、なかなか目覚めが良くなかった。それを次男である小田さんはじっとご覧になってて、自分は中学生になったら、絶対あんな風にはならないぞ、と思って。本当に中学になったら、お母さんが起こしにきた時にはもう、布団の上にちゃんと座ってたという…?

小田さん:(母親に)起こされたことないですね。(草:笑う)
うん…だからもうけっこうね、ずうっとそういう生き方ですね。
一回そうなると。
(目をギュッとつむって左手で目尻横をかき、思い出しながら話すように)
大学の時仙台行ったんですけど、なんも意味ないんだけど、大学ったらみんなサボったり、代返したりが基本じゃないですか。
なんだかある時から急に、早く、大学行くようになったんですよ。学校が開くの待って。それで入ってたんですよ。
それで、一回そういうことになると、途中で止めらんなくなるんですよね。止めるとダメな人間になってくような気がして。
さっきその、走ってるって言ったですけど。走ってないと、自分が、堕落したみたいな。
それはけっこうきついですね、自分では。

(「ムーン・リバー」中学・高校の写真。野球部の主将、そして音楽にのめりこむ。
「夏の終わり」東北大学工学部建築学科に進学。卒業設計「アート・ヴィレッジ」の図面。早大理工学部建築科修士課程卒業)

草:建築学を一応放棄して、歌の道に入っていかれたというのは、なにか大きなきっかけとかあったんですか?

小:きっかけはないですね。歌が好きだっていう、歌をやめるっていうことは…歌をやめるっていうことは想像できなかったですね。
で、建築をやめるってことは、想像できたんですよ。
(草:なるほど)
歌をこっちに置いちゃう(両手で横に置く仕草)っていうことはね…自分の人生のなかでは有り得ないなっていう。

いざとなったら、薬局の店番でもすりゃいいか、みたいな、逃げ道はどっかにあったみたいな気がしますけどね。 

(オフコース結成。コンテストがきっかけでプロデビュー。
10年間試行錯誤の日々。しかしついに大ブレイク。
”オフコース1982.6.30武道館”より「さよなら」の映像)

・・・

草:オフコースっていうグループは、今になってこういろいろ振り返ってみて、良かったところ、どういうところがありますか?

小:(深く息を吸って)良かったとこねえ…
(言葉を選びつつ、ゆっくりと)
「伝わる音楽」と、おしゃれな、だけな音楽とか、そんなことのそのなんてゆうんですか…尾根みたいな。
そういうものが、その、なにげで。
たぶん…いろんなことを、吸収しましたよね。

草:今おっしゃった、「伝わる音楽」とそうでないものの尾根、というか、これは?どんな感じですか?

小:これは…これは金もらわないとしゃべれねえな(笑)
草:(爆笑)

小:いやー、それはもう…なんていうんですかね…言葉では言えないですけども…それは自分で、それは感性だから。ある人にとってはそれは違うかもしれないし。(草:そうですね)
みんなが求めてるものは、いやまず、自分が求めてるものですよね。(草:深く頷く)
大人が聴いたら、なーんだか軟弱な歌だな、と思うかもしれない歌にもね、微妙にそういうものが。あるわけで。
ま、その当時はそういう信念もなかったですけど、何年かしてみると、ああ、そこにあったなっていう。

(1989.2.26東京ドーム解散ライブの映像(涙)「緑の日々」
オフコース解散、ソロへ。「僕の贈りもの」LBバージョン
”THRU THE WINDOW”より 「ラブ・ストーリーは突然に」
この曲が大ヒット。279万枚のセールス)

小:このごほうび早く来すぎたな、と思って。(ソロ2年目)
早くいいことあると、絶対いいことないですよ。昔一緒にやった仲間で早く売れた奴、みんなポシャったもん。
それがその、一人になってからなんか早く売れちゃったから。
これ…更に頑張んなきゃダメだなあ…ってふうに。まあ、逆にすれば、そうやって思わしてくれましたよね。
ここで、絶対奢っちゃいけねえぞ、と思って。

小田和正8/24「ザ・ワイド」レポ3・あの事故から57歳の今まで。に続く。